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ワーグナーは19世紀の庵野秀明である―現代人のための『トリスタンとイゾルデ 』 入門!
文◎小室敬幸(作曲・音楽学)
――ワーグナーは、19世紀の庵野秀明である。
~『ニーベルングの指環』4部作の息抜きだったはずなのに、書いているうちに楽しくなっちゃって大傑作になったのが『トリスタンとイゾルデ』だと思うんです。まるで『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の前に作られた『シン・ゴジラ』みたいなものですね(笑)。~
クラシック音楽やオペラに馴染みのない人々にむけて、かつてインタビューでこう語ってくれたのは作曲家の坂東祐大だ。現代音楽に軸足を置きながら、話題のドラマや映画の音楽でも高く評価される若手作曲家の筆頭格である。
筆者は彼よりも少しだけ年上なのだが、やはり1990年前後に日本で生まれ、当たり前のようにサブカルチャーに触れながら育った世代なので、庵野秀明の新作を今か今かと待ち望み、公開後は毀誉褒貶を伴いながら世代を超えて考察・議論の対象となって熱狂する感覚はよく分かる。保守的なワーグナーファンには怒られてしまいそうだが、大きな執着心を呼び起こすカルト性が庵野秀明と共通しているだけでなく、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』4部作と『ニーベルングの指環』は「神殺し」や「女性による救済」というテーマも共有しており、どうしても重なってきてしまうのだ。
もっといえばエヴァに限らず、数本の長編によって構成される「サーガ(叙事詩)」的な規模や神話のような世界観をもつ映像作品――スターウォーズ、ロード・オブ・ザ・リング、ゲーム・オブ・スローンズ等など――に熱狂した経験があれば、あなたもワーグナーのオペラ(楽劇)に魅せられる可能性はとても高い。語弊を恐れずにいえば、ワーグナーならではの魅力は、"長大さ"にこそあるからだ。この3月に新国立劇場で上演される『トリスタンとイゾルデ』を例にみてみよう。
現状発表されている上演予定時間は、休憩を差し引くと4時間15分ほど。一般的な映画と比べると足がすくんでしまうかもしれないが、実際は3幕に分かれており、幕間にはそれぞれ休憩(各回45分)が挟まれる。つまり85分×3本のドラマを観る感覚に近く、海外の配信長編ドラマと比べれば短いぐらいだ。劇中で起こる出来事自体は決して多くないので、台本さえ短くすればこの物語を2時間でオペラ化することもできただろう。だがそれではワーグナーがこの作品を通して伝えたかったものはすっぽりと抜け落ちてしまう(言うまでもないことだが、昨今話題の倍速視聴には全く向いていない!)。
150年以上も前に初演された『トリスタンとイゾルデ』に、現代の我々が今も強く魅せられてしまうのは、本作を通してワーグナーが伝えようとしている本質が実にシンプルで普遍的だからだ。自分自身が心の底から魅了された物事は、どんな障壁があろうとも最後まで愛し続けよう――ただ、それだけのメッセージを本作から受け取れればいい。あとは、あなた自身が何かに強く恋い焦がれた経験さえあれば、劇中で描かれる激しい感情の揺らぎは全部身に覚えのある経験であるはずだ。その多面的な感情を大きな起伏で描き切り、観客に想像力を働かせて共感してもらうにはどうしても4時間以上必要なのである。
――現代の価値観で物語を読み直す
中世の物語が原案となっているので物語上は異性愛で描かれているが、その愛は必ずしも男女間である必要性さえない。何だったら現代の価値観からいえば、愛する対象は現実に存在する人間でなくても、フィクショナルな存在や物であっても構わないのかもしれない。ところがダイバーシティの重要性が喧伝されるようになった現代社会であっても、実際のところ異性愛以外には白い目が向けられることがまだ多い。トリスタンとイゾルデという2人は、そうした「社会」と「個人」の価値観に板挟みとなって苦しむ人々を象徴しているのである。
トリスタンは自らの職務だったとはいえイゾルデの婚約者を殺しており、イゾルデはマルケ王と結婚したのでトリスタンとは不倫関係......と、第三者からみれば2人の恋愛には反対される要素しかない。それでもワーグナーは社会の倫理観に沿うのではなく、2人は個人の価値観に沿って最後まで愛し合うべきなのだと『トリスタンとイゾルデ』という作品を通して主張しているのだ(媚薬・惚れ薬は最終的な駄目押しでしかない!)。
劇中では、社会と個人で異なる価値観を「昼(光)」と「夜(闇)」という詩的な言葉に置き換えて語っていく。すべてが光によって照らされた昼には自然と衆目が集まるため、社会の倫理観に従わざるを得なくなるのに対し、夜だとプライベートが確保されるというわけだ。だが同時に集団生活を前提とする人類にとっては、突き詰めると「昼=生」「夜=死」の象徴でもある......。最終的に2人はあの世で結ばれたかのように物語は閉じられるけども、誤解してほしくないのだがワーグナーは心中を賛美しているわけでもないだろう。幕切れのイゾルデによる「愛の死」は感動的ではあるが、あくまでも物語の帰結は悲劇的であり、他者の愛を邪魔するべきではないというのが、本作の結論であるはずなのだ。
だから『トリスタンとイゾルデ』を観るたび、どれだけ家族や友人に反対されようと、周囲から馬鹿にされようと、自分の好きという気持ちに正直でいて良いのだ......と、これほど強く肯定し、背中を押してくれる作品はないと感じる。『トリスタンとイゾルデ』は現代でも広く観られるべき作品なのである。
――ワーグナーの音楽は何を描いているのか?
4時間以上ある作品を初めて観に行く上で、予習はどうすればいいか? 本作に関しては簡単で、「前奏曲」と「愛の死」を繰り返し聴いておけばいいのである。このように『トリスタンとイゾルデ』の冒頭と最後を連続して演奏するという方法は、作曲者であるワーグナー自身が始めたものとされ、今も昔もこの形で頻繁に演奏・録音されている。もう少し内容に踏み込むと、本作のテーマである"愛"について、「前奏曲」と「愛の死」では異なる側面が描かれている。その違いさえ押さえておけば、予習はばっちりだ。
前奏曲こと「第1幕への前奏曲」は、チェロによる"憧れ"を感じさせる旋律(「憧憬の動機」と呼ばれるライトモティーフ)で始まるが、最初に鳴り響く和音は「トリスタン和音」と呼ばれる。本作を特徴づける和音であり、音楽の歴史を変えた革命的な表現として認知されてきた。難しそうに見えるかもしれないが、その本質はシンプルである。
譜例1で示したように、最初のトリスタン和音は5拍にわたって「ソ#」が伸ばされたあと(赤)、6拍目だけ「ラ」が鳴る(青)。ところが和声(ハーモニー)の理論からいえば、「ラ」の瞬間だけが本来の鳴るべき正しい和音なのだ! その結果、5拍にわたって正体不明の和音が鳴り続けていることになる。実はこの"分からなさ"こそが、まだ恋に落ちたばかりで自身の心境をまだ自覚できていない状況を見事に表しているのである。詳細は省くが、このような手法などを用いて「第1幕への前奏曲」では相手をとめどなく求め続けてしまう、いわば"恋"の段階における心情が徹底的に描かれていく。
それに対し、物語を締めくくる「愛の死」では、汲めども尽きぬことのない"愛"が音楽で描かれる。譜例1の「トリスタン和音」は異例の存在であるが、理論上の機能はサブドミナントに分類できる。本来のサブドミナントはドミナントを経て、主和音(機能名はトニック)へと回帰するのだが、その過程でエネルギーは収束して解決してゆく。
ところが「愛の死」のクライマックスでは、譜例2で示したようにドミナントが長く引き伸ばされたあと、トニックに解決しない。代わりに伝統的な理論ではドミナントのあとに置いてはいけないタブーであるはずのサブドミナントが続き、ドミナントで溜められたエネルギーが収束することなく広がって爆発するのだ! それは不安定な"恋"とは異なるもので、愛が成就したからこそ汲めども尽きることのないエネルギーが湧き出てくるのだろう。
言い換えれば、『トリスタンとイゾルデ』は不安定な"恋"を表現した「前奏曲」で始まり、安定した"愛"を表現した「愛の死」に終わる。そしてあいだを繋ぐ物語では"恋"から"愛"へ、行きつ戻りつを繰り返しながら徐々に変化してゆく過程が描かれていくのだ。この大枠だけ押さえて、あとは劇場の客席で五感を研ぎ澄ませ、身体全体でこの作品を受け取ってほしい。オペラを観るのが初めてでも、人生が変わるような体験が待っているはずだ。
小室敬幸(こむろ たかゆき)
茨城県生まれ。東京音楽大学付属高等学校と同大学で作曲を専攻し、池辺晋一郎氏らに師事。東京音楽大学大学院では音楽学を専攻し、マイルス・デイヴィスについて研究。修了後はNPO勤務、大学の助手・非常勤講師を経て、現在はフリーランスの音楽ライター。『Jazz The New Chapter』シリーズに寄稿したり、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』に不定期で出演したりと幅広く活動中。共著に『聴かずぎらいのための吹奏楽入門』『commmons:schola vol.18 ピアノへの旅』など。
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