オペラ公演関連ニュース

『修道女アンジェリカ』コラム 修道院ってどんなところ?(後編)


10月1日(日)にいよいよ幕を開けるオペラダブルビル(二本立て)『修道女アンジェリカ/子どもと魔法』
プッチーニの『修道女アンジェリカ』はそのタイトルの通り女子修道院で暮らす修道女が主人公です。修道院とはどんなところで、その中ではどんな生活が営まれているのでしょうか?
前編に続いて、東京大学史料編纂所学術支援職員で、イタリア教皇史がご専門の高久充先生にお話を伺いました。 インタビューは『修道院アンジェリカ』に出演する塩崎めぐみ(修道院長役)さん、中村真紀(ジェノヴィエッファ役)さん、郷家暁子(修道女長役)さん、小林由佳(修練女長役)さんを交えて行われ、役づくりにかかわる沢山の質問が寄せられました。

前編はこちら


劇中、修道女は厳しい規律に従って生活していることが伺えます。修道女内の生活はどのようなものだったのでしょうか。

左から、高久先生、塩崎さん、郷家さん、中村さん、小林さん

高久先生 修道院の一日は早いです。3時半や4時には起床です。早朝に朝課と読書課というお祈りがあります。その後ミサが終わると、朝食です。午前九時頃の三時課が済むと、午前の労働の時間です。手仕事や知的労働などにいそしみます。正午頃の六時課の後で、昼食です。昼食後、少し休憩時間があります。それから午後の仕事が始まります。途中、午後三時頃の九時課をはさみます。労働時間が終わると、夕方には晩課があります。その後に夕食後を取ります。就寝前には、終課という祈りがあります。朝が早いので、夜も早く就寝します。こうして、祈りと労働で一日を過ごします。 


 修道院では、基本的に沈黙を守らなければなりません。特に夜は大沈黙と呼ばれ、緊急時以外話すことは許されません。昼間であっても、無駄話をすることは許されません。でも、一部の修道院では独自の手話をあみだして、沈黙を守りながらもコミュニケーションをとるところがありました。これは、沈黙と言えるのだろうか?と疑問を感じなくもないです。


一同(笑)

『修道女アンジェリカ』リハーサル風景

高久先生 鐘がお祈りの時間を知らせますが、遅れると叱責されます。オペラの中でそういう場面がありますが、実際にありうることです。また、オペラの中で修道女がバラを隠し持つシーンがあります。バラを隠し持っていた行為は、虚栄とみなされます。そして、一般的な世俗の欲望は、従順にも、貞潔にも、清貧にも反しているとみなされます。オペラで描かれるこれらのことは、当時実際に修道院で禁じられていたと考えてよいでしょう。 あまりに規則違反が過ぎると、独房に閉じ込められて、パンと水だけで過ごすよう命じられることさえありました。


中村 それはどの程度の期間だったのでしょう。


高久先生 一般的には数日ですが、一週間やそれ以上となることもありました。


修練女長役 小林由佳さん

小林 体罰のようなものはあったでしょうか。


高久先生 鞭打ちなどはあった可能性があります。類例を挙げると、修行のため、あるいは自分自身を罰するために、自らの体を鞭打ったり、断食をしたりすることがありました。復活祭前の浄めの期間である四旬節(1ヶ月半ほど続きます)には、特に熱心に行われました。


小林 苦しみに耐える、という修行なのでしょうか。


高久先生 ということですね。現代の目から見ると、ちょっと...と感じますが。 その一方で、当時の修道院では、必ずしも規律が守られていないこともありました。一部の身分の高い修道院長は、贅沢な暮らしをしていました。先ほどのモンツァの修道女のように、愛人を隠していることも珍しくなかったようです。



郷家 食べてはいけないものはあったのでしょうか?



高久先生 とくにはないです。ジェラートを食べるところもありますし。お祭りにいろいろなお菓子が出る場合もあります。イタリアだとパネトーネとか、ハトの形としたコロンバとか、ビニェーというシュークリームとか。修道院で作っている場合もあります。


一同 そうなんですね。



ジェノヴィエッファ役 中村真紀さん

中村 オペラでは、修道女が明るく笑いあっていたり、食べ物について盛り上がったりする場面があります。そういうことって、沈黙には反するのではないですか?


高久先生 それはそうなのですが、実際にあったと思います。今の修道院ではよく見かける光景です。夜はさすがに静かですが、昼間は結構にぎやかです。昔も、規律はあるけれども、実際には今と同じような感じだったと思います。


中村 演ずるにあたって、修道女なのにこんなにくだけた感じで良いのかな、と思っていたので、とても参考になります。


小林 托鉢係修道女が寄付を受けたものを仲間の修道女たちに見せるシーンがありますが、実際にあったと考えてよさそうですね。


高久先生 はい。正直なところは、たぶん、みんな楽しみにしていたと思います。
余談ですが、修道院の食事は、どこへ行ってもだいたいおいしいです。飲酒についても述べますと、女子修道院ではタブーでしたが、男子修道院ではお酒自体が罪というわけではありませんでした。暴飲は戒められていましたが。意外に思われるかもしれませんが、労働としてビールやワインを作る修道院では、夕食にそれらのお酒が食卓に並ぶこともあったようです。現代でも、ビールを作る修道院が有名ですよね。ドイツでは19世紀に修道院解散令が出されましたが、教育に関わる修道院や生産活動に関わる修道院はその対象外とされました。その名残が今に続いているわけです。


郷家 私が演ずるのは、役職付きで指導的な立場の修道女ですが、騒がしい様子を見ても、それを諫めなくて良いのでしょうか。

修道女長役 郷家暁子さん



小林 私の役もそう。はしゃぐ修道女を前に「今ダメって言ったばっかりなのに!」と感じてしまうシーンがあります。


高久先生 ひどすぎなければよい、ということでしょうね。私は、いろいろな理由でオペラの修道会は「女子ベネディクト会」という会だと考えています。この会は歴史ある古い修道会で、当時最も多い修道院が属していましたが、重要なポイントとして「中庸」を大事にします。祈るのにも働くのにも、行き過ぎは行けない、規則も厳しすぎてはいけない、という考え方です。ベネディクト会であれば、ちょっとのことは認めてあげる、という雰囲気はありえると思います。


郷家 私は以前オーストリア留学中に、修道院の寮に入っていたことがあるのですが、院長さんはとてもおおらかな方で、全く厳しさを表に出さない方でした。


高久先生 そうですね。修道会、修道院にもよりますが、そのような方はいらっしゃると思います。


塩崎 おしゃべりをする、笑いあうことが規律に反するのだとすると、"泣くこと"はどうなんでしょう。


高久先生 泣くこと自体が悪いとは見なされません。例えば、神様を思って泣く、ということは信仰行為として通常のことです。一方、個人的感情の発露、という点は戒められたかもしれません。


塩崎 物語の中で聖母マリア様のことが頻繁に出てくるのですが、それは女子修道院ならではのことだったのでしょうか。


高久先生 女子修道院に限らずカトリック全体で、マリア様に対する尊敬の度合いはとても高いです。男子修道会でもマリア崇敬は強かったですね。キリストにお願いを申し上げるのは恐れ多いので、代願者としてマリア様に願いを取り次いでもらう、という考え方です。特に中世ではそのような考え方が強くありました。


小林 偉い人にお願いをするのは失礼にあたる、といった感じでしょうか。


高久先生 そうですね。


郷家 オペラの中にもそれを思わせる歌詞があります。


劇中、いろいろな肩書きの修道女が登場します。修道院内の組織はどのようなものだったのでしょうか。


高久先生 修道女(Suor、一般的にはSuora)は、従順、貞潔、清貧の誓願を立てた一般の修道女です。有期誓願、終生誓願の両方を含みます。


 女子修道院長(La Badessa)は、歴史的な用語としては「大修道院長」と訳されます。十二名以上の誓願を立てた修道女がいる大きな修道院の院長です。また、ベネディクト会など、歴史の古い修道会のトップであることを表しています。舞台となった修道院がベネディクト会であると思われる一つの大きな理由です。
他の修道会では、院長が「Direttrice」や「Superiora」、あるいは「Madre」などと呼ばれることもあります。大修道院長は、修道院内のすべてを統轄するだけでなく、その地域一帯の領主となっている場合も多く、女性でありながら大きな権威と権力を持ちました。そのため、有力貴族の娘がなることが多かったようです。有名なカノッサの屈辱で教皇をかくまったトスカーナ女伯マチルダなどがその例です。マチルダは11世紀の人で、フィレンツェをはじめとても広い地域を治めていました。

修道院長役 塩崎めぐみさん



塩崎 修道院長はどうやって選ばれるんでしょう?


高久先生 修道院に所属する修道女によって構成される総会というもので、修道院の中から選ばれることもあれば、外から呼ばれることもありました。地元の教会当局、司教などが選ぶ場合もありました。有力貴族の一族が、娘などの縁者を院長に就ける、といった場合も多くみられました。


小林 先ほど教えていただいた、修道女になるためのステップは省略してしまうのですか?


高久先生 修道女としての修練・ステップは一通り経るとしても、その期間が短く済む、いくつかのステップを飛ばす、といったことがあったようです。


小林 役職を一つ一つステップアップして院長になる、というわけではなかったのですか?


高久先生 そういう例もありました。一方、そうでない場合もありました。


小林 院長はとてもえらい立場なのですね。


高久先生 そうです。とにかく偉いです。地方の知事クラスであったと考えてよいと思います。女性の地位が低い当時としては、すごいことです。


小林 男性社会の中でも、女性が力を持つことができたんですね。

高久 充先生



高久先生 そうですね。修道院によってはある地域の領主でもあるわけですから、その権威は大変なものであったと思います。一方、男子修道会のいうことをある程度聞かなければいけない、と言った力関係はありました。基本的に、男子と女子の同じ修道会がありますから。


修道長はイタリア語では「La Suora Zelatrice」。イタリア語の意味は「熱心な修道女」です。実際の修道院にこのような肩書は存在せず、このオペラ以外では出てきません。内容から鑑みるに、修道女たちを監督する立場のようですね。副院長に相当する役職かもしれません。


 修練長(La Maestra delle Novizie)は、修練者を始めとする養成の責任者です。修道院の中では、院長、副院長、会計係に次ぐ重要なポストです。修練長には、補佐をする養成係がつきます。


 看護係修道女(La Suora Infermiera)は、文字通り看護にあたる修道女です。修道院内には医務室があって、そこで院内の病人の世話をします。他に薬草係もいました。修道院によっては、近隣の住民を治療したり、ハンセン病患者などを世話したりする診療所や施療院を持っていた場合もあります。


小林 この係は、医療の勉強をした人がなった、ということでしょうか。


高久先生 時代が時代ですから、修道院の中で、実地で経験を積んで勉強したのでしょうね。当時は医療の資格といっても、かなり怪しかったですから。


 鍵保管修道女(Suora Clavaria)は、外の門、教会、禁域の入り口、貯蔵庫など、修道院内のすべての鍵を管理します。鍵の束を腰のところにつけています。鍵係以外は、院長も含めて、誰も鍵を持っていないこともありました。修道院の会計係が鍵保管係を務めていることもあります。


 托鉢係修道女(Le Cercatrici)は、外部からの寄付・寄進を集める係です。観想修道会では、一般的には助修女の役割だったのではないかと思われます。


 修練女(Le Novizie)は、まだ正式の修道女ではない、修練長の下で養成途中の若い修道女たちです。修道服も、誓願を立てた修道女とは異なります。


 奉仕修道女/労務修道女(Le Converse)は、助修女とも呼ばれます。下働きをする修道女たちです。独自の制服は着ていますが、身分的には正式な修道女ではなく一般信徒です。貧しい階級出身でもなることができました。


小林 院長以外の役職はどのように決められたのでしょうか。


高久先生 先ほど少しお話しした、総会で修道院の中から選ばれるのが普通でした。品行方正で、優秀な修道生活を送っている人が選ばれるわけですが、一方、身分や家柄も重視されました。貴族階級や、上級の市民階級の出身であったことが多く、役職は、誰にでもつける、というわけではなかったようです。ただもちろん、一般の身分であっても、徳が高いとされた人物が院長になった例はあります。


小林 院長や、役職についている修道女は、修道生活を第一にするのはもちろんですが、一方、修道院を経営する、という立場でもあるように思います。オペラに登場する、公爵夫人は院長などにとってどういう相手なのでしょうか。


一同(笑)

『修道女アンジェリカ』リハーサル風景



高久先生 院長たちの立場だと、寄進者を大切にしなければいけませんよね。規則には従いつつも、丁重にもてなすことが必要でしょう、また、大口の寄進者でなくとも、地元の人たちが農産物、畜産物を寄付してくれることがあります。それも大事にしなければいけません。


 ステレオタイプではありますが、院長は対外的な仕事を担いおおらか、副院長は対内的な仕事を担い厳しい、という一般的なイメージがあります。オペラでは反対に比較的院長が厳しく、副院長がおおらかに描かれているようです。でも、院長には厳しい言動の中にも愛を感じますし、副院長からはより直接的に、あふれる愛を感じますね。


塩崎小林 はい!


中村 役職就きの修道女になるには、どのくらいの期間が必要なのでしょうか。


高久先生 本当は長い年月がかかるわけですが常に例外はありまして、バチカンの一声があれば、すぐにでもなれます。お金はかかったでしょうがね(笑)。貴族の娘だと、20代で院長、ということもあったようです。


小林 勤まったのでしょうか...。


高久先生 実際には、副院長や補佐役が頑張ったのでしょう。


中村 私が演ずる役は、農民出身の、素朴な修道女です。このような場合、どのように修道院に入ったのでしょうか。


高久先生 一例を挙げると、地域の教会の司祭が推薦するような場合があります。「この子はお祈りがとても好きなので、修道院で面倒を見てくれないか?」と司祭が修道院に頼むような感じです。


オペラの中で、「修道女が自殺というクリスチャンとしてのタブーを破る」ことが重要な意味を持っています。
当時、クリスチャンにとって自殺はどのようなイメージだったのでしょう。


高久 充先生



高久先生 キリスト教、特にカトリックにおいては、人間のいのちは神から与えられた贈り物で、人はこのいのちを自分の好き勝手に扱うことができない、つまり自らいのちを絶つことは許されないという考え方が根底にあります。また、対象が自分自身であったとしても、殺すことは神の掟に逆らう行為(大罪)となります。罪は告解(懺悔)し、その償いを果たすことでゆるしを得ることができますが、死んでからではそれもできません。自殺者は地獄に落ちるとみなされました。


 そのため、自殺者は葬儀を拒否され、墓地内への埋葬が許されないこともありました。一方、残された人々の配慮により、自殺ではなく事故として扱われたことが多くありました。また、同じように、発狂した、として扱われることもありました。その場合には、理性の働きが十分でなかったとして、道徳的責任を問われませんでした。


小林 修道女の自殺は、一般の人の自殺と比べて罪深いとされたのでしょうか?


高久先生 はい。特に重いとされました。


作品の舞台について


『修道女アンジェリカ』の直接のモデルとなった修道院は、イタリア・トスカーナ地方、塔の町サン・ジミニャーノ近くにあるピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア・アッスンタ・ア・チェッロレ(Pieve di Santa Maria Assunta a Cellole)という修道院です。ここはもともと男子ベネディクト会大修道院の支院で、その後カマルドリ会やシトー会(いずれもベネディクト会系の観想修道院)、そして16世紀末以降はサン・ジミニャーノの聖堂参事会所属でした。いずれもベネディクト会に連なる修道院であり、私がオペラの修道会は女子ベネディクト会であると考える理由の一つです。ただ、いずれも男子修道院で、実際に女子修道院であったことはありません。
 プッチーニは、1917年にこの場所でオペラの着想を得たと言われています。回廊、門などの構造は、まさに台本通りです。
 ちなみに、現在この修道院は普通の教会になっているのですが、2022年8月20日には、この教会の前で『修道女アンジェリカ』を上演しようというイベントが初めて開かれたのですよ。

Pieve_di_Cellole720px.jpg
チェッロレのサンタ・マリア・アッスンタ教会



 プッチーニの姉であるイジーニア(Iginia Puccini、修道名はシスター・ジュリア・エンリケッタSuor Giulia Enrichetta)は、同じトスカーナ地方のヴィコペラーゴ(Vicopelago)の女子アウグスチノ会の訪問修道院(Monastero della Visitazione)の院長(Superiora)をしていました。プッチーニはオペラを作るにあたって、姉の修道院で取材をしました。この会も観想修道会です。家族であっても、会うためには許可が必要で、なかなかに難儀をしたようです。


chimay_sq2_160.jpg
シメイブルー

『修道女アンジェリカ/子どもと魔法』公演会場で、この場でも話題になった"修道院ビール"のひとつ「シメイブルー」を販売します。オペラと共に、ベルギーの修道院で醸造された重厚なビールもお楽しみください。お求めはオペラパレス1階ホワイエシャンパンワゴンにて。






※本記事は座談会の内容を再構成したものです。


『修道女アンジェリカ』コラム 修道院ってどんなところ?(前編)

関連リンク