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ヴェルディの人生が投影された海の男の物語―『シモン・ボッカネグラ』の魅力
文◎加藤浩子(音楽評論家)
(ジ・アトレ誌2023年8月号より)
究極のオペラ
ヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』は、究極のオペラである。
まず、音楽が美しい。いわゆる耳につくヒットメロディはないかもしれないが、アリアやモノローグ、そして多彩な二重唱の数々がしみじみと心を打ち、美しいのだ。ここには疑いなく、ヴェルディが書いた最も美しい音楽のいくつかがある。
物語も感動的だ。主人公のシモン・ボッカネグラ(1300頃~1363)は実在の人物で、ジェノヴァ共和国の海の防衛を任され、平民出身ながら共和国初の総督に上りつめるが、政争に巻き込まれて暗殺された。オペラ『シモン・ボッカネグラ』は、スペインの作家アントニオ・ガルシア・グティエレスの戯曲『シモン・ボッカネグラ』(1843)に基づいて、この歴史の彼方の人物に恋と政治に生きる海の男という魅力的な輪郭を与えた。ジェノヴァ共和国の海の防人シモンは、貴族で政敵であるヤコポ・フィエスコの娘マリアと禁断の恋をし、マリアを死なせ、フィエスコに縁を絶たれ、マリアとの間にもうけた女児とも生き別れになるが、まさにその日にジェノヴァ共和国の総督に選ばれる。25年後、シモンはアメーリアという名でグリマルディ家の養女になっていた娘マリアと再会を果たすが、かつての仲間だったパオロの恨みを買い、毒を盛られる。最後の置き土産は、自分の孫だと知らずに「アメーリア」の養育係を務めていたフィエスコとの和解だった。シモンは息を引き取る直前に、かつての政敵だがこれもアメーリアを通じて和解し、彼女の婿となったガブリエーレ・アドルノを後継者に指名する。「対立」と「和解」、そして「愛」こそ、『シモン・ボッカネグラ』のテーマなのである。
愛のオペラ
『シモン』における「愛」の中でも最も感動的なものが、「父と娘」の愛である。
ヴェルディは「父と娘」というテーマにこだわった。『リゴレット』でも『アイーダ』でも『ナブッコ』でも『椿姫』(義理の父娘)でも、ドラマを動かすのは「父と娘」の愛や葛藤だ。『シモン・ボッカネグラ』は、「父と娘」ものの究極である。このオペラでは、「対立」と「和解」の原因となるのはいつも「娘」の存在なのだ。「娘」マリアが平民のシモンと関係して子供まで産んだことに怒り、シモンと絶縁したフィエスコは、自分が養育係をしていたアメーリアが実の「孫」だと知ってシモンと和解する。政敵、そして恋敵と思い込んでシモンの命を狙ったガブリエーレは、恋人のアメーリアがシモンの「娘」だと知ってシモンにひれ伏す。
ヴェルディの「娘」へのこだわりを、彼が最初の妻マルゲリータとの間に儲けた娘を喪ったことに求める人は少なくない。だがそれは彼が20代半ばのことである。『シモン』が初演されたのは1857年。40代も半ばに近づいた彼のかたわらには、ヴェルディの「糟糠の妻」のようなパートナーのジュゼッピーナがいた。そのような状況で、改めて昔の悲劇を思い出すだろうか。
ジュゼッピーナとヴェルディの間には隠し子がいたのではないか。その可能性を指摘したのは、アメリカの研究者フィリップス=メッツである。彼女は洗礼記録などを調べた結果、ジュゼッピーナらしき女性が女の子を出産し、里子に出した可能性を指摘した。2015年、指揮者・作曲家のシモーネ・フェルマーニ氏と、ジャーナリストのジョヴァンニ・フェルマーニ兄弟が、彼らの「子孫」だと名乗り出る[*]。それによるとヴェルディとジュゼッピーナの「娘」は彼らの玄祖母に当たり、出産後フェッラーラの棄て子養育院に預けられ、さらにジュゼッピーナのつてを頼って里子に出されて、亡くなったばかりのヴェルディの母と同じ「ルイジア」という名前をつけられた。過去の男性関係が派手だったジュゼッピーナは、ヴェルディの父カルロも含めた多くの人々から白い目で見られていた。パートナーであっても、未婚の男女から生まれた子供は私生児でしかない。オペラ作曲家として名声を国際的なものにしていたヴェルディが、スキャンダルを恐れた可能性は否定できない。『椿姫』(1853年初演)にヴェルディとジュゼッピーナの関係が投影されているという説は根強いが、その4年後に『椿姫』と同じフェニーチェ歌劇場で初演された『シモン』に、生き別れになった「娘」が登場するのは偶然だろうか?第1幕第1場で再会を果たす父娘の二重唱が天上の音楽のように美しいのは、ひょっとしたらヴェルディ自身の娘への愛が込められているからではないだろうか?
政治と歴史のオペラ
「対立と和解」は、本作のテーマのひとつである「政治」にも共通している。『シモン・ボッカネグラ』は初演から24年後に大幅に改訂されてスカラ座で上演されたが、現在上演されているのはこの改訂版である。名場面として名高い第1幕第2場の議会の場面は、この改訂版で新たに付け加えられた。ここでシモンは、政敵に煽られ、なだれ込んできた群衆を前に、対立をやめて平和を!と訴える。壮大なコンチェルタートを締めくくるのは、アメーリアの「平和を!」の一言だ。ヴェルディが書いたコンチェルタートの中でも、最も感動的な音楽のひとつだろう。
感動的な音楽が書けた理由は、おそらく作曲当時のイタリアの政治にもある。改訂版が生まれた当時、イタリアは混乱していた。1861年のイタリア統一から20年、南北は対立し、経済は低迷していた。統一イタリアの国会議員も務めたヴェルディは、そのような状況に心を痛めていたのではないだろうか。「平和を!」というシモンの叫びは、ヴェルディ自身の叫びかもしれない。
海のオペラ
『シモン』の物語と音楽に彩りを与えているのが「海」の存在である。前奏曲や第1幕冒頭のアメーリアのアリアにも、毒が回った瀕死のシモンの別れの歌にも、「海 il mare」がこだましている。
ヴェルディはジェノヴァに別邸を持っていた。パルマ近郊の寒い地域に住まいを構えていた彼は、憂鬱な冬の間、ジェノヴァに滞在して温暖な気候と海を楽しんだ。『シモン』には、ヴェルディが愛したジェノヴァの海が煌めいている。『シモン・ボッカネグラ』は、ヴェルディの様々な人生、様々な思いが込められたオペラなのだ。
待望の新国立劇場初演を支える豪華キャスト
今回、新国立劇場で『シモン・ボッカネグラ』が初演されるのは、筆者のようなヴェルディ好きにとって夢のように嬉しい出来事である。本作は1970年代にクラウディオ・アッバードがスカラ座で上演したことがきっかけでオペラハウスのレパートリー入りを果たしたが、日本ではまだまだメジャーな演目とは言い難い。その知られざる名作が、5月の『リゴレット』で大喝采を博したロベルト・フロンターリ、世界の歌姫イリーナ・ルング、イタリアを代表する名バス、リッカルド・ザネッラート、ドラマティックな美声で注目を浴びるルチアーノ・ガンチら選び抜かれたキャストで新国立劇場の舞台にかかるのだ。しかも指揮はやはり本作を愛する大野和士オペラ芸術監督、そして演出には、オペラ界を代表するピエール・オーディを迎えるという豪華版である。
ヴェルディは「人はなぜ生きるのか」ということを考えさせてくれる作曲家である。『シモン・ボッカネグラ』は、そんなヴェルディの思いがぎっしり詰まった、壮大にして繊細な傑作なのである。
*詳しくはSimone Fermani, Giovanni Fermani, Giuseppe Verdi e la trovatella di Ferrara, Monaco, 2015 を参照
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